海賊と呼ばれた男

掲載日:2021.10.16

海賊と呼ばれた男

彼は、半世紀の時空を超えて突然、私たちの前に現れた。
随分と時間が過ぎたと思うけど、50年前のこと私は、高知県初の「青年の船」の7班のメンバーの一人として初めての海外研修をかねた船の旅を楽しみました。
そのメンバーとは、未だに交流が続いています。

その中の一人が彼、明神くん。
きっと、高知郷土料理の”鰹のタタキ”をご存じの方は”明神水産”の名前もご存じと思います。
鰹の一本釣りから付加価値を付けた”藁焼きタタキ”を世に売り出したのが彼。

青年の船の仲間たちは、彼を明神丸と呼んでいた。
私は、殆ど明神君と話をしたという記憶は無いのだけど、何故か早朝の高知の港で船の上からカツオをポーンともらった事だけ忘れられない。
それから略50年、誰も明神くんに会っていないし、悲しい噂だけが流れてきていた。

人生には色んな事があるさと一言では言うけど、数々の試練をこれでもか、これでもかと歩んでこられたように私には思えた。
ご本人は、それほどの事で無いらしい。

40代の頃、高知を離れ(彼は、兄弟に斬られたという)日本一を誇る鰹水揚げ魚場の焼津で会社を設立。
その時点で既に海外へ視野を広げて「藁焼きタタキ製法」の国際特許を取得している。

魚価の不安定の苦境を克服する為に6次産業施策で鰹缶詰を事業化にして欧米諸国と取引にまで運ぼうとしていた。
伊藤忠商事と契約したその日、その時があの三陸沖地震(2011年3月)だったそうです。
氣仙沼の水揚岸壁、冷凍保管庫、缶詰工場のすべてが流されてすべてを失ったそうです。

それだけでなく、仕事の相棒でもあり頼りにしていた一人息子さんの事故死。
息子さんの死後、息子さんの開発された「MSC1本釣りカツオガールックレアステーキ」は、「農林水産大臣賞」に輝き国際特許を得たという。

大きな業績が残されてもこれ程の試練に会うと立ち直れないはず。
ご夫婦の悔しさや悲しさを今頃になって判る。

息子さんへの想いの丈が、この度の新聞記事となって50年ぶりに私たちの元へ届いた。
「この記事の人、明神丸?」
「あの明神くん?」こんなやり取りが、青年の船の仲間と飛び交った。

息子さんの死を無駄にしたくなく生きた証をと、再び事業を起こして再び世界へ向けての事業展開を始めている様子。
昨日、届いたカニカマは何とベトナムで養殖事業をして日本の技術で加工にこぎつけたナマズのカニカマでした。
私たちが食べているカニカマはスケソウダラで作られたもの。
淡水魚でカニカマを作ることは聞いたことがないというかなりの技術がいるものらしく、その技法で特許を取ったことは無論のこと。
ベトナムでの技術指導や欧米への輸出事業に着手始めているそうです。

彼の歩んだ足跡を探っているうちに、ふと百田尚樹の「海賊と呼ばれた男」の物語が浮かんできた。
私たち青年の船の仲間で噂だけの彼が、彼だけの世界で数々の試練を克服して海の男として世界を相手に羽ばたいていた。
物語の主人公と重なってしまった。

彼の歩んだ人生を上手くは伝えられない。
でも、今の彼、75歳になってもなお、人生を諦めていない生き方に刺激される。
”歳だから…”とか言ってないと思う。きっと。

今度、みんなで会いたいねぇ~。
そしたら浦島太郎だね。
おじいちゃん、おばあちゃんになっているけど、20代の面影でお話が出来ると思うね。
たのしみだなぁ~。( ^)o(^ )

*写真は、冷凍ナマズカニカマで2種の解凍方法での食味依頼あり。さすが、ただでは送ってきませんね。(笑)
スタッフの要望で韓国料理”キンパ”をカニカマを入れて作ってみました。おいしかった!
シェフ、カニカマピッツァも作ってね。